(訂正版)人はどのようにしてプロ野球球団を好きになるのか~特に私の場合の一考察~

一昨日、「野球」の事を書いていて、ふと気が付いたが、

そういえば、私の好きなプロ野球の球団は、日本ハムファイターズである。

「筋金入り」ではないが、小学校3年生以来、一筋にずっとそういうふうに答えている。

その理由を約5年前にブログに書いたが、そこで「つづく」と書いておきながら、結局途中で投げ出して、そのままになっている。

というのは、構想も何もないまま、ただ思いつくままに、「その場しのぎ」で書いているからだ。

「その場しのぎ」については、現・民主党政権と大差はないが、私の方がまだマシだ。

ということで、その「つづき」に加筆訂正をして、けりをつけたいと思う。

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『人はどのようにしてプロ野球球団を好きになるのか~特に私の場合の一考察~』
(2006年10月29日に加筆訂正)

小学校3年生の時、北海道へ旅行することになった。

父親と私と、私の知人の父子の4人で行く予定だったらしいが、急に私の父親が仕事の都合でいけなくなってしまったので、父の知人親子に私が便乗するという形の旅行になった。

「そういう事になったから」

と、父親に言われ、だったら別に私は無理に行かなくてもいいなと思っていたが、

とりあえず、まぁ、どういう形であれ北海道に行けるというので「ああ、そうですか」という感じで、

父の知人親子に水を差す格好になってしまったが、それでも旅行に連れて行ってもらった。

今思えば、私は以外にサバサバした小学生だったのだろう。

父親がそのように勝手に決めてきた旅行に、母親はたいそう反対した。

「可哀想だ。だったら、親の都合が付くときに改めて行けばよい」

私も現在では人の親。
当時の母の気持ちは十分にわかる。
私も同じような状況ならばそういうふうに言うかもしれない。

「大丈夫、大丈夫」と、父はあくまでもそう押し切った。

今思うと、多分、それは旅行の直前で、キャンセル料もバカにはならなかったことも、大きな理由の一つだったのだろう。

母は、仕方なく承諾した。

母は、その旅行に際し、自分も仕事で父の代わりに付いていくことが出来ないという、もどかしさから、

もし迷子になってもすぐにわかるようにと、私にオレンジ色の野球帽を買ってくれた。

それが、当時の日本ハムファイターズの野球帽だった。

ドギツイ、ベネトンばりのオレンジの原色の野球帽。

横文字で「Fighters」と刺繍されていた。

私は当時、別に野球少年ではなかったが、

「YG」とか「YS」とか「CD」といった、一見どういう意味なのかわからない帽子より、
シンプルに「Fighters」と刺繍されたデザインの方が抜群に格好よかった。

特に小学生だった私にとって、プロ野球の球団の親会社が新聞社とかいうのも、なんかピンとこなかったし、
新潟には私鉄がないため、電鉄系の球団もなじみが薄く、一体それがなんの会社か理解するのも容易ではなかった。

それよりも、自分の家が食料品を扱っている商店だったために、「日ハム」という響きに「ああ、ハムとかソーセージを作っている会社か~」と、身近に感じた唯一の球団であった。

ただ当時、小学生の私が目にすることができるメディアでは、読売ジャイアンツ至上主義だったため、日本ハムファイターズに関しての情報は皆無と言ってもよく、

日本ハムというのは、強いのか弱いのかさっぱりわからなかった。

そして北海道へ行く直前、母はその日本ハムのオレンジの帽子に、

「ここに付けるカッコイイ」といって、何故か外国のお土産でもらったミニチュアのピッケル(登山に使うやつ)のバッチを付けてくれた。

実はこの何気なく付けてくれた、バッチがある事件を引き起こす。

旅行当日、空港で金属探知機を通った時、私だけブザーが鳴って呼び止められた。

「ねぇボク、ポケットに何か入っているでしょう?それ、ここに出してくれるな?」

と係員に言われ、確かにポケットの中には小銭か何か入っていたような気がして、中に手を入れるが、何も入っていない。

「おかしいなぁ?もう一度通ってくれるかな?」と再び促され、金属探知機へ。

「ブッ~!」

今度は係員二人係がかりで、服の上からのパンパン叩かれてのチェック。

そして、再び金属探知機へ。

「ブッ~!」と無常にもブザーが鳴り響く。

「ちょっと怪しい」ということで、今度はハンディの金属探知機を持ってきて、体中をチェックされた。

実は、この「ちょっと怪しい」と思われるのには、少し伏線があった。

この、旅行に連れて行ってくれた父の知人というのが、細身の体にパンチパーマ、ストライプの入ったスーツ、サングラスという、どこから見ても「組の関係」の人という格好なのだ。

当時の私でさえ、あの人は「組の関係」のお仕事をしていると思っていたくらいなのだから。

結局、ブザーが鳴った原因は、日本ハムファイターズのオレンジの帽子に付いていたバッチであることがわかった。

プラスチック製だと思ったら、金属が使われていたらしい。

そんなかんだで、無事に北海道旅行を終えることができた。

お土産には、木彫りの熊、瓶詰のマリモ、アイヌのペナントなどを買ってきた。

あれから幾星霜が過ぎ、日本ハムファイターズは北海道に移転し、北海道日本ハムファイターズとなった。

要するに、私の初めての北海道旅行に、日本ハムの野球帽。

それは偶然だったのか、あるいは、未来を予知していた必然だったのか? 

そんな私の取るに足らない「因縁」めいた思い出が、2006年北海道日本ハムの優勝とともに私の脳裏に溶暗していったのだった。(了)

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いかりや長介先生 七回忌に想う

3月の終わり頃、八海醸造のNさんが突然訪れた。

「いや~、随分ご無沙汰しちゃって」

と、良く通る明るい第一声だった。

Nさんは、うちの担当営業ではないので、基本的には会うことはほとんどないので、
彼の突然の訪問はとても意外であった。

私は、Nさんが営業部に移る前に、一緒に製造の現場で仕事していたことがある。

当時、私とNさんは、「東蔵」と呼ばれていた本醸造の「もろみ」の担当部署であった。

Nさんは、途中入社で前職は、東京の或る有名百貨店に勤務していた。

百貨店ならでは、顧客対応の話やクレームなどへの対応の話、仕事の失敗談など、当時、社会経験も何もない私にとっては、とても面白い話だった。

ある時、Nさんと一緒にタンクの上でもろみの温度を計っていた時、たまたまドリフの話になった。

Nさんは、私より年上なので、「8時だヨ、全員集合」を番組開始当初から観ていたので、私よりも、はるかにその分野に明るかった。

生放送中停電になり真っ暗なまま番組を続行した伝説の回も、「ちょっとだけよ」も、もちろんちゃんとライブ映像で見ていた。

実は、その時の話が、とても印象に残っている。

だから、私は、Nさんを見ると、どうしても「ドリフ」を思い出してしまう。

恐らく、Nさんは、そんな事は憶えていないと思う。

今回、Nさんが訪れたのは仕事の話だったのだが、私が目の前にいるNさんを見ながら「ドリフ」の事を考えていたとは、多分気付かなかったであろう。

偶然にもそれは、いかりや長介氏の七回忌の何日か後の出来事であった。

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再掲「いかり長介先生 三回忌に想う」
(2006年3月20日・21日の記事 / 一部修正)

今から約十五年くらい前、私が23歳の時、六日町(現・南魚沼市)の「TUTAYA」で、ザ・ドリフターズのベストアルバムのCDを買ったことがある。

20100405_2

名曲揃いです

ザ・ドリフターズ/

BIG ARTIST BEST COLLECTION

/EMIミュージック・ジャパン




もちろん、店頭に並んでいたわけでなく、店員に注文して取り寄せてもらった。

「お客さん、ホントにこれでいいの?間違いじゃないの?」

という、私を見る店員の視線と戸惑いを今でも忘れない。
初めてエロ本を買った時のように、ドキドキした。

当時、私の住む地方は、今ほどインターネットのインフラが整備されておらず、家庭にパソコンがあること自体珍しく、ましてやインターネットに繋げるというのは、大学の研究機関かオタクの領域だった。

その当時、私もようやく携帯電話なるものをはじめて所有したが、デジタル方式では電波の範囲があまりにも狭く全くといっていいほど使えなかったので、「アナログ式」の、今でいうところの電話の「子機」のような携帯電話を使っていた。

確か、東北セルラーだったと思う。

「アマゾン」のような便利なネットショップなどは皆無で、CD一枚取り寄せるのに、タウンページのような分厚いカタログから選んで注文した。

ちなみに、なぜ私が自宅から約100キロも離れた六日町で買ったかというと、顔を見られたくなかったからとか、そういう訳ではなく、当時、八海醸造でお世話になっていたからだ。

それと、なぜドリフのベストアルバムを購入したのかというと、無性に欲しかったからである。

当時、八海醸造でお世話になる時、いわば「丁稚奉公」のつもりで行ったので、給料なんかはもらえないものだと思っていた。

しかし、やはり蔵元といえどもきちんとした会社なので、待遇は他の季節作業員と同じにしてくれた。

なので、給料をもらった時は、「えっ、オレももらえるの?」と驚き、恐縮の限りだったが、当時、製造次長だった南雲重光さんが

「働いたんだから、ちゃんともらえばいいこっつぉ」

と魚沼弁で笑いながら言ったので、ありがたく頂戴した。
はっきり言って、当時の私の働きに対しては、本当に過分すぎるくらいの金額だった。

おかげで、急に懐が暖かくなったので、目先のほしいものはとりあえず買う、というイケナイ癖が身についてしまった。

ある日、営業サイドでの採用で入社したNさんという人が、蔵の製造で研修という形で同じ部署にやってきた。

Nさんは、八海醸造に入社する前は某百貨店に勤めていて、百貨店ならではの失敗談とか、理不尽な客がいて、ひどい目にあった話とかしてくれて、とても面白かった。

ある時、Nさんと一緒にタンクの上でもろみの温度を計っていた時、たまたまドリフの話になった。

Nさんは、私より年上なので、「8時だヨ、全員集合」を番組開始当初から観ていたので、私よりも、はるかにその分野に明るかった。

生放送中停電になり真っ暗なまま番組を続行した伝説の回も、「ちょっとだけよ」も、もちろんちゃんとライブ映像で見ていた。

私はNさんを本当に羨ましいと思ったし、途中で「ひょうきん族」派に、鞍替えしてしまった自分自身の軽率さを大いに後悔した。

爾来、私は自分自身への贖罪と、その免罪符として、無性にドリフのCDが欲しくなったのであった。

そして、遂に、私は念願のベストアルバムという免罪符を手に入れた訳だが、そのCDのジャケットには、志村けんは居らず、荒井注が写っていた。

それだけで、私は救われた気がした。

私は「早く聞きたい」という欲望が沸騰し、レジカウンターで、密かに興奮を隠しきれなかった。
お金を支払い、CDを店員から奪うようにして受け取ると、車の中に駆け込み、カーステレオにCDを挿入し、歌詞カードを舐めるようにして曲を追った。

「いい湯だな」を始めとして「ズンドコ節」、「ミヨちゃん」「チョットだけよ!全員集合」などなど、魂を揺さぶる名曲、全18曲のすごい内容だった。

加藤茶のコケティッシュな歌声、仲本工事の伸びのあるベルベットな歌声、故意的に不機嫌さを装う荒井注の歌声、高木ブーのフラットなエスプリ、そして、若かりし志村けんの必死で懸命な姿が目に浮かぶ歌声。

そして何と言っても「ズンドコ節」に代表される、歌い手のメンバーが替わる時のいかりや長介先生のソウルフルな合いの手。

神が降臨した。
既に贖罪の域を越え、それは賛美歌だった。

そして、私は車の中で、いつまでもいつまでもCDを聞き続けたのだった。

以来、そのCDは私の宝物のような存在であったが、とりあえず、今どこに仕舞ってあるか忘れてしまった。

嫁さんに、「CDはどこに仕舞ってあるのですか?」と聞いたら、

家のどこかにあるんじゃない?と冷たい対応をされた。

でも、いい。
なぜならば、ドリフは私の心の中にあるのだから。(了)

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ワインレッドの心 (一)

久々にワインを飲んだ。

今から、約十年程前に、東京のと或るワイン専門店に行った時に買ったであろう、ナンチャラカンチャラという名前の、当時¥1,350(外税)の赤ワインである。

多分、ラベルが格好イイから、「とりあえずラベル買い」をしたワインである。

今、気付いたが、フランス産だったんだね。シラー&グルナッシュだってさ。

ちなみに、ヴィンテージは平成9年。

焼酎ブームは、未だです。

そのうち飲もうと思って、どこかに置いておいたものが、邪魔だからこっちにおいて、そこも邪魔だから、あっちに置いて、そして、いつしか、そこに置いたことも忘れて、約十年一昔。

すれ違う時の中で  あなたとめぐり逢えた
不思議ね 願った奇跡が  こんなにも側にあるなんて

って、別に願った訳ではないが、偶にワインもいいかなって思って、漸く、私は、それを口にした。

色調と照りと香りをみて、あぁ、これなら大丈夫だべ、と、ズズっズと口に含んだ。

意外に、飲めた。

その時、茶褐色に近い、枯れた色調の、広義のワインレッドの液体が、グラスの中に揺れながら、私の心を映し出して見せた。

つづく

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白ワインの透明に近い思ひ出 Ⅴ

というわけで、何とかワインはでてきた。

今思うと、そういう場合は、「スーパードライ」ではなく「エクストラドライ」と云うべきだったのかなぁと思う。

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口の転がし、すするようにテイスティングした、フェルミネのバッカスを、そんな思ひ出とともに、飲み込んだ。

その後、みんなでカラオケ行ってビール飲んで、越乃白雪飲んで、その後、ラーメンと野菜いため食って、笹祝いの生酒飲んで、極めてジャパニーズスタイルな弥彦の夜を過ごした。

独逸では「日本」のことを「ヤーパン」と発音するらしいが、日本では、パンツをはいていないことを、「ノーパン」と云う。やっと、おしまい。

Photo

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白ワインの透明に近い思ひ出 Ⅳ

相手の家族は、更に、

「?」という顔している。

一緒にホームステイしている、同じ年の、確か群馬のヤツだったかな?

「オメー、日本のビールがこんなところにあるわけネーダロ!」

って本気で怒っていたな。

そうそう、あいつ、群馬の桐生の出身だっていってたな。

平塚って苗字のヤツなんだけどね。

平塚って言えば、神奈川だよな、って思うもしれないけどさ、群馬なのに平塚なんだってさ、おかしいね。

そーいえば、下の名前忘れたなぁ。

つづく。

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白ワインの透明に近い思ひ出 Ⅱ

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学生の頃、いろいろあって独逸國に夏の間、約一ヶ月ホームステイをした経験がある。

片言の中学生レベルの英語を駆使して、なんとか過ごすことができたものの、初めての欧州の中心的の國の文化に大いに驚かさせられた。

西欧に追いつくため、私は帰国してから、それまでの「ちょんまげ」を止め、散髪をした。

そのホームステイ中、小さなワイナリーに連れて行ってもらったことがある。

小さいワイナリーだけに、ワインの直売もする。

たぶん、地元の人以外は、独逸国でも、ほとんど無名のワイナリーだと思う。

しかし、私は、そこのワイナリーのワインがどうのこうのよりも、その景観、風景の美しさ、―他所の國の人間が見てもうらやましく思うほどに―、が、気になって仕方がなかった。

高校生の頃、ジャパニーズワイナリーとも言うべき、加茂の蔵元マスカガミに瓶詰めのアルバイトに行ったことがある。

その風景は、こんなにも美しくはなかった。

冬、私は隣町まで、数少ないローカル線に乗り、早朝にトボトボと雪を踏みしめながら、雪がしんしんと降り積もる中、わずかな自給を目当てに、アルバイトに行った。

毎朝、暗く、ダークな色だった。

もちろん、夏に見る風景と冬の風景も、当時の意識も違う。

しかし、このあまりに不平等な比較は、酷なくらいに私の記憶に、ガツンときたのだった。

同じ「醸造」という一点において、これほどまでに共通しているというのに・・・。

つづく。

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失われた時を求めて(最終回)

しかし、普通に思うに「ステーキ」と応えたことが、そんなにいけないことなのだろうかと、少し冷静になればわかるのだが、その時の私は、とんでもない事を言ってしまったと、どうしようもなく挙動不審になっていた。

少し、間をおいてH君はすっかり熱くなっていた私をなだめるように、そしてまるで敗者に手を差し伸べるようにこう言った。

「うん、肉なら、鴨だね。鴨南蛮はおいしいよね」

か、鴨?
それは池で泳いでいるあの鳥のことなのか?
しかも、「ナンバン」ってなんだ?

完全に私の負けだった。
小学生の私にとって、全く理解不能の食べ物の名前だった。

私は肩を落として家路についた。
そして、その悔しさをぶつけるかのように、補助輪が取れたばかりの自転車のペダルを思いっきり踏みこんだ。

+++++++++++++++

何年かのち、私は「鴨南蛮」がどういう食べ物かということを、テレビだったか雑誌だった忘れたが、「画像」で初めて知った。
その時、えらく感動したのを憶えている。

あれから、二十年以上のち、私は妻子とともに、こうして蕎麦を食べている。
およそ二十年以上かかって、私はようやく小学生のH君の味覚に追いついた。

蕎麦を食した時に、ほのかに香る幼少の想い出。

それは私にとって、日常、世知辛く過ごしている直線的な時間が、ゆるやかに曲線を描き、二十数年前の些細な出来事を経由して、日常に戻るという時間の曲線運動なのであった。 (了)

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失われた時を求めて(3)

小学生でありながらも、ネギやワサビ、ざる蕎麦が好きなH君に対し、「スイカが好き」と応えた私自身が、まるで随分と子供っぽいことを言ってしまったようで、私は恥ずかしくなった。

「すごいね、H君はオトナとおなじものが食べられるだね」

しかし、本当の気持ちは、「オトナが食べるもの」を、子供のうちから美味しいと思って食べられるようになったからと言って、ちっとも羨ましくも何とも思わなかったのだが、そこは少しH君に気を使って、そんな風に応えた。

そして、「本音と建前」を使い分けられる私自身の方がずっとオトナだと密かに思った。

H君は、少しはにかむよう微笑んだ。

既に、この勝負は私の負け戦だった。
オトナの味覚をもつH君に、子供の味覚の私がどんな好物を列挙しようとも、敵うはずがないのだ。

そして問題は何よりも、小学生同士が語り合う「好きな食べ物」というテーマが、「如何にオトナの食べ物が好きか」というテーマにすり替わっており、完全にH君の土俵の内に引きずり込まれてしまっていることだ。

私は既にそのことに気づいていた。何を言っても負けるだろうが、何とかしてH君に一矢を
報いたかった。

そして、思いつく「オトナな食べ物」を、頭の中で必死に探したが、なかなか見つからず、段々焦ってきた。

仕方なしに、苦し紛れにこう言った。

「・・・ステーキ」

しまった!と思った。
全然シブイ食べ物でない。

完全に自爆だった。

(つづく)

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失われた時を求めて(2)

小学生の頃、比較的仲が良かった、H君の家に遊びに行った時のことだった。

何となく話の流れで、「どんな食べ物が好きか」というテーマになった。

大人でも、酒の席とか、然るべき席で、偶にそういう他愛もない会話になってしまうことは多々ある。ましてや小学生ともなれば、尚更のことである。

私は、寸分を置かずに、H君に言った。

「スイカが好き。世界で一番、スイカが好き」

ところが、H君はそんな私の答えを、冷静に受けつつも、何か戸惑うような仕草をしつつも、一旦、ちょっと自分の言葉を心の中で一呼吸確かめ、そしてためらいながら、私に言った。

「ネギが好き」

「ね、ねぎ?」

と、今度は私がためらい、戸惑いながら、言葉を返すと、H君はまるで堰を切ったかのように、いかに自分がネギが好きを話し始めた。

私は、とりあえず、小学生のH君の語る「ネギへの熱い思い」を聴くしか術がなかった。

「あの、香りとシャクシャクした食感が堪らない」とH君は繰り返し私に語りかけた。

更に、H君は私にトドメを刺すかのように言った。

「それでね、ざるそばの、おつゆにはネギをたっぷりと入れてね、そこにワサビを入れてね、そうして食べると、すごくおいしい」

「ざるそば?」
「ワサビ?」

小学生であった私にとって、ワサビやざる蕎麦などは、あくまで大人の食べ物であり、「ハンバーグ」や「スパゲッティ」とかに比べれば、そんなものは、決して好んで食べたいと、微塵も思ったことがなかった。

そのH君の語り口は、まるで落語家のようであり、そんな仕草にも随分度肝を抜かれるのだった。
(つづく)

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失われた時を求めて(1)

久しぶりの休み、子供を思いっきり遊ばせてあげようという思いで、満開の桜が咲く、村松公園に家族と訪れた。

桜が、とてもとても美しかった。

Sakura

いつから、私はこんなにも桜が美しいと感じるようになったのだろうかと、密かに感傷に浸っていたが、桜を背景に盛んに写真を撮っている、妙に不自然な年の離れたカップルの関係が気になって、あらぬ妄想がムクムクと湧き上がってしまい感傷どころではなかった。

Sakura2

しかし、あまりにも寒かったため、およそ30分で撤収。

とりあえず、遅いお昼ご飯を食べるため、かねてから入ってみたかった、蕎麦屋さんに入る。

まもなく三歳になる長男と二人で食べれば丁度良いかと思い、「ざる蕎麦」の「大盛り」を注文した。

やや暫くして出てきた、挽きたて、打ちたて、茹でたてを標榜する、自慢の手打ちそばの大盛りは、「大盛り」の割には、随分少ない量だった。

妻が私を心配して、「パパ、それじゃ足りないんじゃない?」と言葉をかけた。
慥かに、方々の「名店」といわれる蕎麦屋の大盛りの量と、その「値段」と比べても明らかに少ない。

こんな田舎でカッコつけてんじゃねーよ、と少なからず思ったが、今日は私はオフの日。

特段、肉体労働や頭脳労働をするわけでない。

「いや、いいんだ。これくらいが丁度いい」と応え、三歳になる子供に取り分けてあげた。

ざる蕎麦に付いた薬味を蕎麦猪口に入った汁に入れる。
ネギと大根おろし、そしてほんの少しワサビ。

そして、そこに蕎麦を浸し、一気にすすった。

口腔に広がる、蕎麦の香りと歯応え、それに付随してネギのシャクシャクした触感、そしてかすかにワサビのスパイシー。

あっという間に私は、ざる蕎麦をたいらげた。

ざる蕎麦なんて、本当に久しぶりだった。

「パパ、やっぱり足りなかったんじゃない?他に何かたのむ?」と更に妻は心配した。

妻の心配の通り、空腹を満たすには確かに足りなかったが、実は私は既に「気持ち」は満たされていた。

敢えて言うが、その蕎麦の「量」がどうこうとか、美味かったかどうかという事とか、そういう事ではなく、「蕎麦を食べる」という、ただ一点に関して、或る幼少の時の記憶が、私の気持ちを満たしていたからだ。

そう、それは、まるで紅茶にひたしたプティット・マドレーヌの味。

(つづく)

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