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見当たらないだけで、無くしたわけではない

昨年の11月以来、日中、肌身離さず付けていた、

仙台市・慈眼寺の数珠ブレスレット(木製)が、見当たらない。



無くした記憶はないのだが、無いということは、

やはり、無くしたということなのだろう。



しかし、「無いという現象」から、

「私が無くした」と言う事には、必ずしもならない。

なぜなら、無くした記憶がないから。



つまり、いつも付けている数珠ブレスレッドは見当たらないが、

私は無くした訳ではない。



それはともかく、一番嫌なのは、私が無くしたというと、

家族から、

「また?ちゃんと片づけないから」

と非難されることだ。


繰り返すが、私は無くしていない。


無くしてないけど、無いだけだ。


しかし、いつも付けているものがないと、実に不安だ。


******

私は、いずれ、そういうこともあろうかと思い、

実は、慈眼寺で複数個の数珠ブレスレッドを購入してきてもらっていたのだ。


そういう訳で、ここ数日は、新しいものを付け、

今までのものは、無くしてはいない振りをしていた。



ところが、洗濯物と一緒に、今までのものが出てきたのだ。

どうやら、衣類と一緒に洗濯をされたようだ。


洗濯洗剤のおかげで、今までに付着していた、私の手首の脂分は落ち、

なんかカサカサした感じになってしまったが、

よくぞ、戻ってきてくれたものだ。


さすが、千日回峰を達成した大阿闍梨のお寺の数珠ブレスレッドは、一味違う。

Dsc_0912

一ノ蔵「特別純米生原酒3.11未来へつなぐバトン」

慈眼寺の数珠ブレスレッド(スペア含む)




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